努力と無理の境界線 | Office Aina

「傷つきながら働く人を"0”に!」
厚生労働省人材開発支援事業
「企業内キャリアアップ面談」「人材育成企業内研修」担当

努力と無理の境界線

〜頑張りすぎて見えなくなった私〜




「いつまで頑張ればいいのか、終わりが見えない」
「頑張っているのに、達成感や満足感が得られない」
「休むことが怖い」
「自分の努力の量=自分の価値、と思ってしまう」

一生懸命の度合いが分からない人が考えてしまいがちなこと。
これらの言葉は、昔の私を表しているみたい。

私も、
「自分の頑張りどころがわからない」
「どれだけ頑張っても達成感を得られない」
そんな状態だった。

どこまで頑張ればいいのか、わからなくなってしまった・・・
そう感じたことがある人へ、今日は私自身の体験を書いてみたいと思います。






あの頃の私は、表面的には「充実している」ように見えていたかもしれない。
新卒採用、研修、後輩育成、人件費に給与計算・・・いろんな仕事を任されていた。
管理職候補として期待されているような声もあった。

だから「仕事を任される=評価されている」のだと思っていた。
抱えている仕事が多くなりすぎて、残業が続いていても、どんなに疲れていても、
「自分ならできる」と鼓舞し続け、「やらなきゃ」と動き続けていた。

今から思えば、よくあれだけ働けたものだ、とも思う。
それでも、「がんばれば誰かの役に立っている」
そう信じて動くことを止めようとは思わなかった。







毎日、毎日、能力のない上司の尻ぬぐいに追われていた。
思いつきで出される指示、朝改暮令の伝達事項・・・

どんなに理不尽な状況であっても、自分がフォローしないと回らない。
不満を感じていても、他部署に迷惑はかけられない!と
完璧を目指して仕事をこなす日々。

愚痴りながらも、「自分が動いた方が早い」と自分を追い込んでいった。
日に日に積み重なっていく仕事と疲労感。

その頃の私は
「頑張ればなんとかなる」「きっといつかは認めてもらえる」ーー
私は、終わりが見えない道のりを必死に走り続けていた。






そんな毎日を過ごしているうちに、背中が痛くなってきた。
マッサージや整骨院に通っても、いつまでたっても治らない。

「ストレス溜まってるかも~」と笑い話にすることで、自分の心も騙していた。

「気のせいだ」「もう少し頑張れる」

朝、頭痛で起きられないときもあった。
夜、寝てしまうと朝になる恐怖から眠ることができなかった。
あまりのしんどさに、家族の夕食を作れないときもあった。
推しの番組を観ていても、笑顔にならないこともあった。

身体がSOSを出していたにも関わらず、「もっと頑張るべき」とその声を無視していた。







どうしたって、私の口から出てくるのは、能力のない上司の愚痴。
愚痴しか言わない自分自身に嫌気がさしてきた。
愚痴ばかり聞かさせる家族の気持ちも考えるとますます愚痴を言えなくなった。

人事課長に相談しても、「あなたが上手く立ち回れるようになればいい」
同僚に相談しても、「いい人だよ~」、そんな言葉しか返ってこなかった。

目の前にある、たくさんの仕事をこなしながら、
「上司ともなんとかうまくやれないか?」と自分から歩み寄ることも試してみた。
でも、誰も認めてくれなかったし、助けてくれなかった。

その中で、ただ独り、頑張り続けるしかなかった。
あのときの私は、「期待に応えたい」より、期待を裏切るのが怖かった。
こんなこともできないのか、と思われるのが嫌だった。

誰かに認めてほしくて、限界なんてとっくに越えていたのに、気づかないふりをした。
努力は、本来、生きることを支えるものなのに、
あのときの努力は、生きることを削るものになっていた。






毎日のように、「会社に行きたくない」という気持ちを抱えながら、
「休むこと」が選択肢になかった私は、どうにかこうにか仕事を続けていた。

頭のどこかで、もう無理かもしれない、と思いつつも、
感じることに鈍感になっていた心がついてこなかった。

ところが、その日は突然やってきた。



目の前の電車に乗らないといけないのに、
まるで金縛りのように身体がこわばって、足がすくんで動けない。
自分でも何が起こっているのか理解が追い付かない。

「会社に行かないと」と気持ちは焦っているのに、身体が動かない。
ほんの数秒だったかもしれないけど、私にとっては長い時間のように感じた。

ーーー今から思えば、身体がブレーキをかけてくれたのだろう。
「もうこれ以上は無理だよ」
それは、誰かに止められたわけでも、言葉で気づかされたわけでもない。

身体が、私より先に限界を知っていただけのこと。
そのとき、私はやっと自分の心の声を聴くことができたような気がした。





誰かに認めてほしくて、誰よりも命を削る想いで頑張った。
でも誰も認めてくれなかった。
一生懸命頑張ったのに、自分の存在価値がわからなくなった。

強制終了になって、自分の存在価値を探す時間ー
それは、私が人生で初めて立ち止まった時間だったかもしれない。

今の私から見ると、
あのころの私は、「頑張っていた」のではなく、「無理をしていた」ように思う。

「努力は自分の未来を創る行動、無理は誰かの期待に応えるために自分を削る行動」
この体験を経て、そう考えるようになった。

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