「本当の自分では褒められないと思っていた」
ー「ありがとう」を素直に受け取れなかった理由ー
褒められることが、ずっとよくわからなかった
私は「褒められる」ということが、ずっとよくわからなかった。
たとえ言葉をかけてもらっても、「どうして自分が?」と戸惑ってしまう。
嬉しいはずなのに、どうしても受け取れない。
信じたいのに、信じられない。
「本当にそう思ってる?」
心のどこかで、いつも疑ってしまっていた。
「褒められても喜んではいけない」
それはきっと、母とのやりとりの中で染みついた“癖”だったのだと思う。
あの夜、心の奥で何かが動いた
あの奇跡の夜。
彼に「ありがとうございました」と言われた瞬間、胸の奥で何かがふっと弾けた。
その言葉の奥に感じたのは、「あなたを知っている」という静かな確信。
それは、私がずっと追い求めていた「認識される」という感覚だったのかもしれない。

「私のこと、わかってくれてるんだ」
そう気づいたとき、心の奥の何かがやっと動きだした。
「褒められる」「認められる」を、少しずつ考え直して
あの夜をきっかけに、私は「褒められること・認められること」を少しずつ考え直すようになった。
今まで受け取ることを避けてきた「ありがとう」や「すごいね」の言葉に、ちゃんと向き合ってみたい
――
そう思えたのは、きっと彼の「ありがとうございました」が、心の奥の扉をそっと叩いてくれたから。
まだうまく受け取れないときもあるけれど、
「私なんて」と打ち消す前に、いったん立ち止まって深呼吸をひとつするだけで、
凍えた心が少しずつほどけていくのを感じる。
褒められない私ができた理由
では、どうして私は“褒められる”ことにこんなにも戸惑うようになったのだろう。
褒められると、なぜか居心地が悪くなってしまう。
「この人は私の何を見て、褒めてくれているんだろう?」そんな疑問を抱いてしまう。
だから褒められると、笑ってごまかしながら、大きく手を左右に振って、
それ以上、踏み込まれるのを避けるように
「いやいや、そんなことないです・・・誰でもできますよ」
と答えてしまう。
本当は嬉しいのに、受け取るのが怖い。
もしかすると、受け取らないことで「自分を守ろう」としていたのかもしれない。
「足りない自分」から抜け出せなかった日々
「褒められたら素直に受け取れれば楽なのに」と、何度も思ったことがある。
受け取って素直に喜べる人が羨ましいとすら思う。
「どうして素直に受け取れなくなったんだろう」
記憶の糸をたどってみると、私は母から褒められた記憶があまりない。
「やればできるのに、なんでちゃんとやらないの」
それが母の私に対する口ぐせだった。
たぶん母は、私を思って言っていたし、私の能力を信じてくれていたのだと思う。
それはわかっている。
でも、子どもだった私は、「頑張っても、まだ足りないんだ」と感じていた。
母に褒めてもらえる“いい子”になるために、できたことよりも、できなかったことを探すようになった。
「もっと頑張れるはず」「まだまだダメだ」
いつの間にか私は、「足りない部分を埋める」ことに必死になっていた。
必死に努力をしていたとしても、母の思うような結果にたどり着けなかったときは、
「私の努力が足りなかったんだね」と自分を責める。
そんなことを繰り返しているうちに、「できた」を喜ぶ感覚をどこかに置いてきてしまった。

そして今、誰かに褒められるたび、心の中の小さな私がそっと隙間から
覗いてこう言い放つ。
「本当の私は、そんなにスゴくないんだよ・・・」
「ありがとう」が教えてくれた、心を通わせるということ
今でも、あの夜の「ありがとう」が、私の中で静かに響き続けている。
スゴくない私にかけられた言葉。
まだ誰かに褒められても素直に受け取ることは難しいけれど、
「誰かと心を通わせる」という温かさを、少しだけ感じられるようになった。

その感覚が、静かに私を次へと導いていった。
👉 次回求めることを我慢した私へ続く

